「続けるか、帰るかどっちにするんや!」
仙台商のグラウンドで監督の怒声が響く。その矛先は軟式野球部”元”主将の佐藤海斗(さとう かいと)に向けられていた。その瞬間、彼の中でこれまでたまっていたものが爆発した。「じゃあ、帰ります」。そう言い残して佐藤はグラウンドを去った。
2016年、年の瀬も押し迫った12月23日、3年連続で明石に出場していた常連校のキャプテンが突然退部するという、前代未聞の事件が起きていた。
小学3年生で野球を始め、地元の富谷第二中では主将も務めたが、上で野球をやりたいという思いはそこまで強くなかった。中学3年生のとき、たまたま図書館で手にした『Standard宮城』(アマチュアを中心に宮城のスポーツ情報を紹介するスポーツマガジン)で仙台商軟式野球部が取り上げられているのを見た。「延長50回」で話題になった第59回大会で、仙台商が5年ぶりの全国選手権出場を果たしたことが特集されていた。「ここしかない」。迷いなく進学を決意した。
小学生からほぼ一貫してキャッチャーだった佐藤は、1年生の夏にブルペン要員として全国のベンチ入りを果たす。
2年生になると正捕手に抜擢され、先輩エース・信田をリードしてチームとしては3年連続の明石へ。初戦(河南戦)を突破するも、2回戦で後に準優勝した早大学院に敗れ、2年連続でベスト8に終わる。「先輩の夏を終わらせたくないと必死でした。僕ら後輩に気をつかわせないように、逆に気をつかってくれる先輩方で…。正直、あのときの敗戦が3年間で一番悔しかったかもしれませんね」。
「海斗が部活をやめたらしい」
最高学年になった新チームで主将に就いた。2年連続で全国・国体のベンチ入りをしたのは佐藤が唯一だったから、当然の成り行きだったのかもしれない。全国ベスト8の壁を超えるためのチームづくりが始まった。
しかし、秋季大会は県大会で仙台育英に敗れ、東北大会出場を逃す。「県大会で負けるなんてありえんやろ」。主将としての責任、勝てるチームをつくれるのかという不安を1人で背負い込んだ。
「あのときは周りに頼ることができず、すべてが悪い方向に進んでました」。
そんな状態でオフシーズンに入ったところで、冒頭の事件が起きる。
「仙台商の練習メニューに『外3』ってのがあるんです。グラウンドの外周を3周、18分以内に走り切るトレーニングです。僕、走るの本当に苦手で、ほぼノルマギリギリで走ってたんです。そしたら『キャプテンなのに、そんなんでいいのかっ』って怒られて。『いやいや、キャプテンとか、関係ないでしょ』って、プツンと切れてしまった感じです」。
若干17歳の高校生が感情をコントロールするのには、もはや限界だった。「帰ります」とだけ言い残してグラウンドを後にした佐藤の行動は、事実上の「退部宣言」だった。
「海斗が部活をやめたらしい」ー。
そのうわさは瞬く間に校内から先輩、父兄、中学の先生にまで広がった。「本当にいろんな人が心配してくれたのですが、正直、野球の話をされるのはイヤでたまらなかったです」。しかし家にいたところですることもなく、気付いたら野球のことばかり考えていた。
そんな佐藤を背中を押したのは、前年の夏、一緒に明石を戦った先輩の一言だった。「もう一度、明石の景色を見て来て欲しい」。3月末に監督の元へ行き「やらせてください」と頭を下げた。
「だから、僕、チームづくりに一番大事な2年生のオフシーズンに練習をしてないんです。普通だったらあまりよく思わない人がいて当然なんですが…。戻ったら『もう、辞めんなよ!』ってみんなネタにしてくれて。あとから聞いたら先生(監督)も『こいつは帰って来るやろうな』と思ってくれてたみたいです。本当に感謝しかないですよね」。
空白の3ヶ月を経て、何事もなかったかのように高校野球は再開した。復帰後にキャプテンを辞退したことは、佐藤のせめてものけじめだった。
春は県大会で敗退したが「連続出場を途切らせてはいけない」という気持ちでひとつになったチームは、4年連続の全国選手権出場を勝ち取る。
3年目で初めての開幕ゲームとなった福岡大大濠戦を制すると、2回戦で中京学院大中京(現中京)と対戦。初回、一挙に6失点を喫し、その後は無失点に抑えるも反撃に緒をつかむ前に試合は終わった。
「(相手の2年生エース佐伯は)スライダーにさえ手を出さなければ、なんとかなるって言い合ってたんです。それでもいきなり140km/hオーバーの直球を投げられたらね…。大学時代も含めて、あれ以上の『バケモノ』にはまだ出会ってません」。
仙台商が6連覇できた理由
佐藤が卒業したあとも仙台商の全国連続出場は続いた。第64回大会(2019)まで6年連続出場を達成。第43回〜49回の松商学園以来の記録だった。その強さはどこから生まれるのだろうか。
「伝統的な守備力だったり、圧倒的な練習と試合量だったり、『仙商』という先輩方が築いてくれたネームバリューも、もちろんあると思います。ただ、何よりも『自分たちで記録を途切らせちゃいけない』というプレッシャーを、毎年の選手が力に変えられているのが大きいと思います」。
仙商軟式初のJAPANを目指して
引退後、佐藤の進路には2つの選択肢があった。ひとつは軟式では全国でも名門の東北福祉大に進むこと。2つ目がその福祉大に挑む東北学院大で軟式を続けることだった。「勝って当たり前」の仙台商軟式を経験した佐藤が選んだのは後者だった。
「福祉大に進めば全国にも出れるし、勝てることは分かってました。でも今度はそこに挑戦する立場で野球をしたいなと思って(東北学院大を)選びました」。
同学年で高3時の国体で好投した石垣成らも学院に進学、翌年には1学年下のエース佐藤らいむも加わり、再び「仙商軟式バッテリー」で日本一を目指す日々が始まった。
提供:佐藤海斗さん
大学軟式の主な大会は8月の「全日本選手権」と11月の「東日本/西日本選手権」の2つ。3年生になった佐藤はここまで全日本出場は果たせていないが、昨年は東日本選手権に出場。また、東京ヴェルディ・バンバータ主催の「バンバータチャレンジカップ2019」では、東北地区大学選抜のメンバーに選ばれ、ベスト4入りに貢献した。
2020年はコロナの影響で全日本選手権、東日本選手権が中止となったが、東北地区の独自大会「第1回ゼット杯東北王座決定戦」で初代チャンピオンに輝き、佐藤は大会最優秀選手(MVP)に選ばれた。3年生の秋で引退する選手もいるなか、佐藤は4年生の秋までプレーすることを決めた。その後は社会人チームでプレーすることを目指している。
「卒業までの目標は大学日本代表に選出されることです。これまで仙商軟式からJAPANは誰もいないので。もちろん、仙商メンバーで選出されたら最高ですね」。
提供:佐藤海斗さん(東北王座決定戦で優勝した東北学院大の元仙台商軟式メンバー)
高校時代、一時の感情によって佐藤の野球人生は終わったかのように思われた。しかし、周囲の支えと自らの選択で再び野球の道に戻ることができた。あの空白の3ヶ月は、佐藤が3度目の明石のグラウンドを踏むために、そしてその先の夢の続きを追いかけるために必要な時間だったのだろう。■
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取材後に佐藤さんからメッセージをいただきましたので、掲載します。
自分たちの時代よりかはメディアも取り上げてくれるようにはなりましたが、高校軟式も大学軟式もまだまだ世間的にはマイナースポーツです。野球人口も減っている中、硬式だけでなく軟式も選択肢に入れていただくことで野球人口が増えればと願っています。
近年は軟式野球の普及活動として、中高生や社会人チームとの交流も増えています。東北福祉大学軟式野球部監督の小野さんや、宮城教育大学軟式野球部監督の畠山さん、連盟の方々、その他サポートしてくださる方々のおかげでこのような普及活動ができています。
高校軟式から大学軟式に進む道もあることを今の高校軟式球児に知ってもらいたいですし、一人でも多くの人が大学軟式野球を選んでくれることを心から願っています。
この企画では、明石を目指してプレーした元高校軟式野球球児を紹介しています。全国出場を問わず、高校軟式のありのままの魅力を伝えていただける方からのご連絡をお待ちしております。
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