インタビュー近畿

【元明石球児インタビュー #1】あの夏の日本一よりも嬉しかったこと 大瀬祐治さん(天理) <前編>

インタビュー
2016年、5年ぶりに全国選手権に出場した近畿代表の天理(奈良)は、3試合連続の壮絶な延長戦を戦い、決勝では早大学院を下して初優勝を果たした。主将だった大瀬祐治さん(天理大3年)はエースとして44イニングを投げ、チームを頂点に導いた。あの優勝から3年、大瀬さんに野球を始めた頃の話から高校軟式を選んだ理由、悲願の全国選手権出場と、日本一にたどり着くまでの舞台裏を振り返ってもらった。(本文中は敬称略)

小学生で全国デビュー、盟友の存在

小学2年生のときに地元天理小の軟式チーム「天理小コスモ」に入団。同期には後に天理高の硬式野球部で投手として活躍する仲野芳文選手(同志社大硬式3年)がいた。大瀬もこの時期からマウンドに立っていたが、絶対に負けられない試合では必ず仲野が先発した。小学生で既に110km/hを超える怪腕に対して、大瀬は緩急でかわすピッチングが得意だった。剛の仲野と柔の大瀬。ふたりの活躍もあり、チームは数十年ぶりの全国大会への出場を果たす。大瀬が初めて経験した大舞台だった。

そのまま進んだ天理中時代には内野手としてプレーし、仲野とはバッテリーを組むこともあった。しかし個性派が多かったチームは最後まで結果を残すことができなかった。

「小学生のときから彼(仲野)は別格でした。そんな凄い選手を隣でずっと見ていたので、その先は硬式でやる自信はありませんでした」

一緒に切磋琢磨した盟友と自分とを比較し、大瀬は軟式の道を選ぶ。もし仲野がいなかったら、大瀬はまた違った野球道を進んでいたのかもしれない。しかし、結果論だが、大瀬が後に日本一の投手になれたのもまた、仲野の圧倒的な存在があったからこそなのだ。

早々に高校軟式を決断をした大瀬だったが1人では心細かった。「軟式だろうな」というチームメイトに声をかけて回った。その中には後に全国制覇を果たしたチームの4番を務めた水﨑の姿もあった。

「彼がトイレの個室に入っている時に、外から『一緒に明石目指そうや』と僕にしつこく勧誘されたと今でも言われます。全く覚えていませんが(笑)」

大瀬の執拗な勧誘が実を結び、一緒に明石を目指すメンバーが集まった。しかし中には硬式野球部への入部が叶わなかった者など、決してエリートばかりが集まったわけではなかった。それどころか「まともにノックすら受けることができない世代」とまで言われた。

バッティングピッチャーから近畿大会のマウンド、そして主将に

中学では仲野にピッチャーを譲った。しかし元来、目立ちたがり屋の気質を持っていた大瀬は、高校に入ってからもピッチャーへの思いを捨てきれていなかった。1学年上には島という2年生からエースを務めた偉大な先輩もいた。ピッチャーをやりたいとは口には出せなかったが、自らバッティングピッチャーに名乗り出ては、先輩を相手にビシビシ投げ込み、アピールを続けた。

2年生の夏、サードを守っていた大瀬は県大会決勝の奈良育英戦で公式戦初登板を果たす。ここで結果を残すと、近畿大会1回戦の南部戦では2点ビハインドの大事な場面でマウンドを任された。残りのイニングを無失点に抑えたが、チームは全国を逃した。

■2年生の夏、近畿大会1回戦・南部戦でリリーフを任された大瀬

その敗戦の日、新チームから監督に就任することが決まっていた木田監督に主将に任命することを告げられる。「やらせていただきます」大瀬は二言返事で了承した。いや、断ることができなかった。

「新しい監督は厳しい方だと聞いていたので。やりません、なんて言える感じじゃなかったです(笑)
。みんなとは『最後の1年くらい、俺たちには厳しい方ががちょうどええやろ』って無理矢理言い聞かせていましたね」

応援されるチームになろう

しかし新チームが始動してすぐに、大瀬たちの「恐れ」は良い意味で裏切られることになる。

天理高、天理大と硬式野球をプレーした木田監督の理論的な指導方法はこれまでとは全く違うものだった。バントや守備練習などの基礎練習に重きを置き、それまでの練習内容は一変した。「なぜ、ここではそのプレーをするのか」ということを一から教えられた。

「僕たちは本当に野球を知らなかったことを痛感しました。例えば試合後のミーティングで、これまでだったら『あそこで打てなかったから負けた』という、今から思えば『それ当たり前やん』というような内容ばかりだったのが、選手一人一人の口から出る言葉も変わっていきましたね。徐々に勝てるようにもなってきて、野球が一気に面白くなってきました」

一方で新監督は野球以外の部分、日常の大切さを選手に伝えた。大瀬は新チーム発足時にチームの目標を定めたのだが、それは日本一になることでも明石に行くことでもなければ「応援されるチームになる」というものだった。

「監督からは日頃のグラウンド以外の生活の部分が絶対に結果に結びつくということをよく言われました。だから応援される=応援したいと思ってもらえるチームになることで、必ず結果はついてくると常にみんなには言っていました」

そして、さっそく結果は出る。天理は秋の近畿大会で準優勝の成績を残す。チームにはかすかな自信が芽生え始めていた。

自らのバットで5年ぶりの明石へ

しかし、オフシーズンが明けたチームはいまいち調子に乗れていなかった。

大瀬自身も調子が上がっていなかったが、そんな中で転機となる試合があった。春の近畿大会1回戦の河南戦だ。この試合で、天理は公式戦で初めてタイブレークを戦った。後にこのタイブレークが日本一になる上で重要な経験となることを、当時はまだ知らなかった。この年の河南は本格右腕の上野を擁し、一体感のある好チームだった。この接戦を制した天理は、春の近畿大会を頂点まで駆け上がった。

迎えた最後の夏。近畿大会決勝まで進むと、比叡山(滋賀)との大一番は両者譲らず0-0のまま延長戦に。延長12回裏、二死2塁で大瀬に打席が回る。「出来過ぎですよね」と振り返った大瀬が放った打球は相手レフトの頭上を超えて、サヨナラのランナーが生還。自らのバットで、チームとしては5年ぶりの明石への切符を手にした。

<後編に続く>

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